キリスト教の聖書

共観福音書とは マルコによる福音書とマタイ・ルカによる福音書の違い

投稿日:2017年9月11日 更新日:

マルコによる福音書、マタイによる福音書、ルカによる福音書は、共通する話もたくさんあり、共観福音書と呼ばれています。
ところが、マルコによる福音書と、マタイによる福音書・ルカによる福音書では主張がけっこう違います。

マルコによる福音書と、マタイによる福音書・ルカによる福音書がどのように言っていることがけっこう違うのかをご紹介します。

目次

福音書がそれぞれどのような主張をしているのかについて異なる見解がある

福音書がそれぞれどういう主張をしているのか、人によって色々な見解があるようです。

聖書学などの分野の研究者が一般向けに書いた本を読むと、人によって見解がかなり異なります。

ですので、このページで紹介しているのは一例です。
人から聞いた話は話半分に聞いて参考にして、あとはきちんと批判的視点を持った専門家が書いた書籍を自分で読むことをおすすめします。

新約聖書の福音書のうちマルコ・マタイ・ルカの3つの福音書を共観福音書という

新約聖書のマルコによる福音書、マタイによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書のうち、マルコ、マタイ、ルカの3つの福音書を共観福音書といいます。

同じ話が多数収録されているなど、何かと共通する部分が多いのでそのように呼ばれています。

キリスト教会は3つとも本質的に同じことを述べていると言う

キリスト教会では、共観福音書はすべて本質的に同じことを、それぞれ少し異なる側面から述べている、というような理解をしています。

イエスは救い主キリストで神の子で、全人類の罪を背負って処刑されて罪を贖って、その後復活したというようなことを、3つとも述べているということです。

実際は共観福音書は違うことを述べている

ところが実際は、共観福音書はけっこう違うことを述べています。

マルコによる福音書は、イエスが罪を贖って死んで復活した、という教義ばかり強調することに反対する立場で書かれています。

生前のイエスは弟子たちと一緒に宣教してまわり、病を癒すなどの実践をし、収奪の構造に怒っていて権力者に批判を浴びせかけたり皮肉を言ったりしていたわけです。

そういうイエスの生き方にならって、イエスと同じように実践することが大事だ、生前のイエスの生き方を無視して贖罪死ばかりクローズアップしてイエスを神に祭り上げるなどナンセンスだ、とマルコによる福音書は言っています。

それに対し、マタイによる福音書、ルカによる福音書は、イエスの死と復活の教義を宣伝するために書かれていて、マルコによる福音書の批判的記述を、上手に批判的意味合いが消えるように書き換えています。

そのように、共観福音書は全然違うことを言っています。
特に、マルコによる福音書と、マタイによる福音書・ルカによる福音書の間で主張は180度違うと言っても良いほどの部分もあります。

マルコによる福音書は、生前のイエスと同じように実社会で実践しろと言っている

ナザレ村出身の一男性であるイエスは色々実践していた

生前のイエスは、暮らしていた実社会で色々実践していました。

当時のパレスチナ辺りはすでに階級社会であり、収奪の構造がありました。また、今のように建前の上ですら基本的人権などもないので、ひどい目にあっている民衆もたくさんいました。

そういった社会の腐った部分に対してイエスは怒っていました。
それでもイエス自身も一大工にすぎず、社会的身分が高い方ではないので、権力者にあからさまに批判を浴びせれば命を奪われる恐れもあります。
それでも自分の可能な範囲で支配層の人間に批判を浴びせたり皮肉を言ったり、日々抵抗していたようです。

また、職業や身体的特徴で差別を受けるなど社会の中で自分よりさらに底辺に追いやられて苦労している人とも楽しく交流していたらしいです。

聖書を含む古代の文献の研究によればイエスはそのような人であり、決して、実際の行動は何もせずに「私には祈ることしかできないから……。世界が平和になりますように」などと悟り澄まして神に祈って涼しい顔をしているような類の人間ではなかったらしいです。

私たちは現代社会で主権者として日々社会を良くする努力をして色々実践しているわけですが、その私たちから見てもイエスの暮らしぶりはとても共感できるものです。

ただ祈っても、社会を変える行動をしなければ悲惨はなくならない、とご立腹のあなたとイエスは同じ気持ち

多くの人が「悟り澄まして祈っていても何も変わらない、社会を変える努力をし続けなければ悲惨はなくならない、ただ祈っているだけのキリスト教徒というのは当事者意識の欠如と責任逃れも甚だしい」と心穏やかでないことでしょう。

お気持ちお察しします。

まさにナザレ村出身の一男性であるイエスも、同じように、実践しないと何も変わらない、と思っていたようです。そして一大工の身分で可能な範囲で実践していたようです。

結構多様性を認め合う精神を持っていたと思われる、ナザレ村等で大工をしていたイエス。

当時はキリスト教会の組織ができてきて、白々しい教えに傾き始めていた

マルコによる福音書が書かれた時代は、キリスト教会の組織ができてきた頃です。

イエスの直弟子に特別な地位を与えようとする傾向もありました。

生前のイエスはかなり無視されて、人類の罪を背負って処刑されて死んだ後に復活した救い主がイエスだ、ということばかり強調する傾向もありました。

そのように、社会の腐った部分に怒っていたり、権力者を批判したり皮肉ったりして抵抗したり、近隣の町村でみんなで宣教して実践しよう、と言っていた骨のある30代男性イエスは無視されて、神として祭り上げられるような感じになりつつありました。

生前のイエスにならって、イエスのように実践するのが大事だ、ということでマルコによる福音書が書かれた

そのように、生前のイエスの暮らしぶりがかなり無視されつつあったので、生前のイエスの暮らしぶりを見習って、イエスのように実践するのが大事だということで、マルコによる福音書が書かれたらしいです。

マタイによる福音書、ルカによる福音書では、教会組織の正当化と教義の説明などがメイン

一方、マタイによる福音書、ルカによる福音書では、生前に社会の腐った部分に腹を立て、自分のできる範囲で権力に抵抗するなりの実践をしていたイエスは重視されていません。

それどころか、マルコによる福音書ではイエスの実践ぶりが書かれていても、マタイ・ルカでは実践ぶりが弱められ、教会の組織や役職の正当化や、教義の正当化などを目的にした記述に変えられてりしている箇所が多数あります。

というのも、マタイによる福音書、ルカによる福音書とも正統派の教会組織関係の人たちが書いたと思われるもので、マルコによる福音書のように正統派の教会に批判的な視点で書かれた文献の主張を打ち消す必要があったためだそうです。

一応、イエスについて知るために大事な部分もある

そういうマタイ、ルカですが、イエスについて知るために大事な部分もあります。

マタイによる福音書、ルカによる福音書ともマルコによる福音書を土台にして書かれているらしいですが、その他にもう一種類共通の資料を参照していたり、さらにマタイ、ルカそれぞれに別の資料を参照していたりもするらしいです。

よって、マタイ、ルカにしか載っていないイエスの言動などもあります。
そのため、マタイによる福音書、ルカによる福音書は全く意味がなく読む価値がない、というわけではありません。

マルコによる福音書の言わんとしていることを理解するためにも、マタイ、ルカとの比較が有効でもあります。

また、マルコによる福音書の主張を打ち消す目的だけでなく、それぞれに主張したいことも書かれてはいます。

きちんと批判精神を持って読めば意味はある文献だと言えるでしょう。

マルコによる福音書と、他の福音書を比較している本

マルコによる福音書と、マタイによる福音書・ルカによる福音書を比較して違いを説明している本として、例えば以下のようなものがあります。

高尾利数「聖書を読み直す 1 旧約からイエスへ」(春秋選書)


「聖書を絶対視せず、また無視し捨てさることもせず、一つの古典として、中に含む真実と歪みを鋭く読み分けるユニークな聖書評論。イエスは旧約の〈義〉をいかに昇華したか。」

高尾利数「聖書を読み直す 2 イエスからキリスト教へ」(春秋選書)


「いったんイエスにおいて最も開かれた宗教性に達した精神が、原始キリスト教ことにパウロにおいて再び排他性・党派性に陥る。その過程を新約の代表的な部分をあげて解明する。」

高尾利数「イエスとは誰か」(NHKブックス)


「自由でおおらかな生き方をし、当時のユダヤ教やローマ帝国支配下の差別社会に激しく切りこんだイエス。『マルコによる福音書』を中心に、聖書を読み直し、生前のイエスの言行に注目することによって、新しいイエス像を描く。伝統的なキリスト教信仰を再検討し、「信じ込みの宗教」ではなく、「目覚めの宗教」として、著者自身の「生活の座」からイエスを捉え直す真摯な試み。」

注意 これらの本も批判精神を持って読む

上記の本はそれぞれの福音書を比較して説明していて、何かと参考になります。

ただし、人間が書いているものなので、当然ながら批判精神を持って読みましょう。
人間が書いている以上、当然ながら絶対正しいわけではありません。

例えば、聖書学者の青野太潮氏の著書を読むと、上記の本とはかなり異なる説明がなされています。

青野氏の著書の例

「十字架の神学」をめぐって: 講演集 (新教新書)

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

詳しくは専門家が書いた関連書籍で

聖書の書かれた経緯や、内容の意味などはかなりややこしいです。

例えばマルコによる福音書が、当時の教会組織に対してとても批判的な主張をしているという見解がありますが、それは結構日本国内にある特徴的な見解だそうで、一方で上村静著『旧約聖書と新約聖書(シリーズ神学への船出)』には、そこまでマルコ福音書が批判的な主張をしていると決めるのは急ぎすだ、というようなことが書かれています。

参考書籍

上村静「旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)」新教出版社

そのように色々な見解があるので、人から聞いた話は話半分に聞いて参考にして、あとはきちんと批判的視点を持った専門家が書いた書籍を自分で読むことをおすすめします。

本を読んだとてお前ごときに何が分かるのだ、と言われた場合

それぞれの福音書の語るところの違いを知りたいと思い、色々と本を読んでみたとします。

ところが、自分より学のありそうな人から「お前ごときが本を読んだとて何が分かるのだ。著者の言わんとすることの100分の1も理解できていないだろうさ」と言われることはよくあります。

しかし、この言い分を真に受けていたら、最終的に本を読んで学ぶことが許されるのはオックスフォード大学出身者などほんの一部のインテリだけになってしまうでしょう。

書かれていることのほんの一部だけしか理解できていないとしても、仕事上必要な本を読んだり、仕事と無関係だが興味がある分野について知りたくて本を読んだり、その他様々な理由で皆読書をするわけです。
そのようにしてわずかでも本から知識を得て、それを参考にするなどして毎日あくせく働いて社会を支えたり、種々の事情で働けなければ他のことに取り組んだりし、生きているのが我々で、そういった人々がいて社会は存在しているわけです。

オックスフォード大出身者などほんの一部のインテリしか本を読むことを許されない社会になったら、おそらく社会は成り立たなくなって人類は滅亡するでしょう。

我々学のない者が学がないながらに苦労して読書することは意味のあることなのです。

キリスト教関係者と話が噛み合わなくても、がっかりしないでまた歩み出す

キリスト教会に行ってみた経験のある人なら、牧師やその他のキリスト教関係者にそれぞれの福音書の違いについて色々と疑問などを話してみたところ、話が全く噛み合わず、エリート意識を剥き出しで一笑に付されるなどし、がっかりするという経験をしている人も多いでしょう。

しかし、気を落とす必要はありません。
同じ経験をしている人はたくさんいます。

そういった場合には以下の動画をみて、仏性は私たち自身の中にあることを思い出し、初心に帰って元気を出して、また歩み出しましょう。

キリスト教関係者と話が噛み合わず落胆した時、初心に帰る動画

曹洞宗 心の柱 | 曹洞宗東北管区教化センター

曹洞宗東北管区教化センター 心の柱

上記の動画「心の柱」は曹洞宗東北管区教化センター発行のパンフレット「心の柱」の説明動画らしいです。
パンフレット「心の柱」は、曹洞宗東北管区教化センターへ送料を添えて申し込むと送ってもらえるそうです。
以下のページに説明があります。

インテリに惑わされない

世界はインテリであろうとなかろうと、全員がいて初めて成り立っています。
そして、インテリであろうとなかろうと、病気で寝たきりの状態だろうと会社勤めをしていようと、人間であれ人間以外の生き物であれ、命あるものは存在自体に価値があり、神から無条件のゆるしを与えられているのであり、価値があるから我々はみな堂々と生きています。

人間は皆愚かで弱い存在であり、学のある人もない人も愚かで弱いという点は同じです。
子どもの頃から学校の授業で落ちこぼれた経験もなく、いい子いい子と言われて育ってきたら、誰でも思いあがって上から目線の態度をとる人間になってしまうでしょう。
牧師などの職業はある程度のインテリでないとなれないため、こういった傾向はかなり強いと言わざるを得ません。
これは人間という弱い存在では避けがたいことだと思われます。

インテリはそういった環境で育ってしまっていることを考慮して、そういったインテリの物言いにあまり惑わされないようにしましょう。

不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏
(文字に絶対的な権威を措定せず、経論の教えとは別に自分の言葉で思想を語り、現在の自分のままで、自己の真実を明らかにする)

仏性は私たち自身の中にあります。

インテリとインテリでない人、の二つに分けるのも良くはない

上記ではインテリとインテリでない人に分けて語っているわけですが、実際は単純に二つに分けられるわけではありません。

どっちかというとインテリ気味な人や、どっちかというとインテリでない人など、中間の人もいるでしょう。
単純な二元論の考えに陥ると変な対立の構造が出来上がってしまい良くないので、上から目線で迫ってくるインテリには警戒しつつも、あまり極端な二元論に陥らないように注意も必要でしょう。

行き詰まったら 禅定をしましょう

人間は弱いので、ただ頭で理解しようとしてキリスト教関連書籍を読み続けても一向に状況が変わらないこともあるでしょう。
さらに、色々読んだとて「お前なんぞが本など読んで何が分かるか、何も分からんだろうさ」と言われることもよくあることで、もう嫌気がさしてきている人も多いでしょう。

そこで、禅定をしましょう。
仏性は私たち自身の中にあります。

曹洞宗の、ラフな感じの坐禅の解説動画

初めての坐禅

曹洞宗の坐禅の解説動画

禅 -The ZEN-

臨済宗の坐禅の解説動画

自宅で坐る

坐禅の基礎の本

普勧坐禅儀は道元禅師が書いた坐禅の基本を説明した本です。
坐禅の基本的な説明の他に、勇気の出ることも書かれています。

道元 「小参・法語・普勧坐禅儀」 <全訳注> (講談社学術文庫)

マルコによる福音書と、マタイによる福音書・ルカによる福音書がどのように言っていることが違うのかを紹介しました。

キリスト者と求道者の必読書



クルマ社会と子どもたち (岩波ブックレット (No.470))



「年間子ども500人が亡くなり,7万人が負傷する交通事故大国.
日本社会のその歪みを正すために,どんな視点が求められているか.
昔遊び場であった道という空間が激変した意味をたどり,児童の認識能力を過大評価した「交通安全教育」万能論を批判し,社会的弱者の生活空間において交通量を制御する交通環境改善の提言を行う.」



交通死―命はあがなえるか (岩波新書)



「私たちはいつの間にか交通事故で毎年1万人以上の生命が失われるという現実を当たり前と感じるようになっている.
しかし機械的な事故の処理,「生命の値段」の決めかたに異を唱えるのは非常識なのだろうか.
交通事故で最愛の娘を失った著者が,事故当夜から刑事裁判,賠償交渉,民事訴訟に至る「人間としての死」を取り戻すための闘いを克明に綴る.」



子どもの命を守る分離信号―信号はなぜあるの?



「行政は、なぜ青信号を渡る子どもたちを見殺しにするのか?
『人間の注意力は不確実なもの』
信号システムを改善するだけで、確実に子どもたちの命が救えるはずなのに。」
「人と車を同時に交差させる一般交差点は、青信号を渡る子どもたちの命を危険にさらしている。
不確実な人間の注意力に頼る信号システム・交通行政を批判し、人と車の流れを分離させる分離信号の普及を提唱する。」



クルマよ、お世話になりました: 米モータリゼーションの歴史と未来



「アメリカはいかにしてクルマ大国になったのか?
クリーンエア最優秀賞受賞者がその知られざる驚愕の歴史を詳述し、クルマに依存しない豊かな生活のための方策を提案する。」

楽しい暮らしのために役立つマンガ


小中高の先生方が忙し過ぎるようで、子どもたちが「自分が主権者である」という意識を学べずに大人になるケースがかなりあるようです。
民主主義社会の一員として必要な基礎を子どもたちに教えてあげましょう。



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