クルマ社会とはどのようなものでしょうか。
そんなに悪いものでしょうか。
岩波ブックレット「クルマ社会と子どもたち」を参考に、おおまかに書いてみます。
杉田聡、今井博之「クルマ社会と子どもたち (岩波ブックレット (No.470))」岩波書店
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目次
最近のクルマ社会の状況は、人の死を問題に思わないかなり異常な状況
何かの被害で一年間に何百人も子どもが殺されたら大問題になるが、自動車の被害で子どもが何百人も死亡しても無反応の社会
例えば、猛獣の被害で1年間に何百人も子どもが死亡したら、大騒ぎになるのではいでしょうか。
しかし、自動車の被害で1年間に何百人も子どもが死亡しても、それほど大騒ぎになっていないのが今の社会です。
「社会」というのは要するに私たちです。
皆、自分の人生を歩んでいた人
「交通事故」と言ってさらっと流しますが、その被害で死亡していった子どもたちは皆、自分の人生を歩んでいた一人の人です。
自動車にはねられる状況は悲惨
ニュースを見てもさらっと報告して終わるので、あまり想像できていないかもしれませんが、自動車にぶつけられて死亡する状況というのは悲惨を極めるのです。
発表される死者数の何倍もの子どもたちが植物状態などになっている
警察発表の交通事故死者数は、事故後の一定の時間で死亡した人が計上されています。
実際には植物状態になり、数年後に亡くなる人も大勢います。
意識はあるけれど、体はまったく動かせなくなる人もいます。
自動車というもの自体に欠陥がある
自動車はレール上を走りませんし、プロでない、短時間の教習を受けただけの素人が運転しますし、コンビニに10円ガムを買いに行くような用事でも自由気ままに使えるといった点で、機械・システムともに欠陥だらけなのです。
ですから、いくら運転マナーを向上させる努力をしても、根本的な欠陥を問題視しないと「交通事故」は無くせません。
これだけ事故が起これば、炊飯器など普通の機械なら当然発売禁止になるが自動車は売りまくっている
年間に100万件にも及ぶような事故が起こり、何十万人も負傷するような機械であれば、普通は発売禁止になります。
例えば炊飯器や湯沸かし器の事故で負傷者が数十万人出たとすれば。
しかし、自動車はそういう状況でもなぜが普通に売られまくっています。
もともと道は生活空間で、これからの道も遊び場・生活空間であるべき
もともと道路は遊び場だった
まだクルマが普及する前の1950年代くらいまでは、道路は子どもたちの遊び場だったそうです。
大人も夕方道路でくつろいだりしていたので、大人にとっても道路は生活空間だったそうです。
確かに、高峰秀子主演の映画「稲妻」などでよく家の前の道で子どもが遊んで大人が何か食べてくつろいでいます。
クルマが普及して子どもの遊び場が激減した
モータリゼーションでクルマが普及し、1955年〜1990年の間に子どもの遊び場が20分の1に減ったとのことです。
我々大人がそれだけ遊び場を減らしておきながら、「最近の子どもたちは家でばかり遊んで。我々が子どもの頃は元気に外で遊んでいたものだ」などと我々大人はよく言えたものですね。
道路は子どもの遊び場として最適
子どもは初めは家の中で遊びますが、成長するにつれだんだん外で遊ぶようになり、だんだん遠くに遊びに行くようになって自立していくので、だんだん距離が変えられる「道」というのは遊び場として最適だということです。
また、公園があったとしても、公園と公園と家の間などをつなぐ道が危険きわまりない状況では、分断されていて、子どもたちが動き回って友人と会ったり別れたりあっちの公園に行ったり家に戻ったりするネットワークがない状態なので、遊びようがないのです。
子どもの権利条約には「遊びの権利」があるけど、遊び場がないのではどうにもならない
子どもの権利条約に「遊びの権利」があるそうです。
しかし、日本のように子どもたちに遊び場がないようでは、いくら「遊びの権利」をうたっても意味がありません。
大人の人間関係にとっても道でくつろぐのは大事
道が遊び場として大事なのは子どもだけかと思ったら、実は大人にとっても道でくつろいだり井戸端会議をしたりするのはとても良いことだそうです。
道路の交通量と、その周辺の人間関係などを調べた研究によれば、交通量が少ないほど人々の交流が活発になり、ここに住んでいて良かった、暮しやすい街だ、と思う人が増えるということです。
逆に交通量が増えるほど、周辺に住む人の関係は分断され、友人知人も少ない傾向を示すということです。
大人は「交通事故」の責任を子どもたちに転嫁する
「交通事故から子どもを守る」は正しくない
よく、「交通事故から子どもを守りましょう」と言いますが、これは事実を見えにくくしている表現です。
交通事故の中身は、大人が車を運転し子どもにぶつけ、子どもが負傷、または死亡する、というものです。
ですから、事実通り言うなら「大人は子どもを車でひいて殺傷しないようにしましょう」と言わなければならないのではないでしょうか。
自動車会社は責任を負う態度がない
これだけ多くの子どもたちが死傷し、またいつ自動車にぶつけられて死傷するかわからないような社会状況を作っても、自動車を売りまくっている自動車会社にその責任を負おうとする態度はあまりありません。
子どもに反射材を付けさせるのは、優しさのように見えるけど、本質を見るとそれほど良いことでもない
子どもが車にひかれないよう、反射材を付けさせたりします。
付けさせている人は善意で付けさせていて、悪意はないかもしれません。
しかし、本質を見れば、大人がクルマを自由気ままに乗り回したいので、その引き換えに子どもらには反射材をつけさせておく、という責任転嫁とも言えるでしょう。
交通教育の効果はそれほどない
子どもたちによく交通教育を行います。
しかし、研究によれば、子どもたちは生物学的に大人と全然違うので、大人ができる回避したり注意したりする行動をとるのは無理だそうです。
子どもたちに、車を避けるよう教え込むのではなく、車という機械とシステムの欠陥と、大人が自由気ままに車を乗り回せるという状況を変えないと「交通事故」は無くせません。
参考リンク
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スケアード・ストレートの「教育」効果
Cycle Tokyo like a local with Tokyo By Bike. Articles on all things cycling in Japan including laws, ...
www.tokyobybike.com
子どもたちが危険に合わず、元気に遊べるにはどうすれば良いか
進んでいる諸外国では、ボンエルフやゾーン30など、交通事故問題を解決する意外とうまく行っている例が結構あるそうです。
交差点の信号に関して、歩車分離信号にすると劇的に歩行者の交通死を減らせることが報告され、さらなる普及が望まれています。
参考書籍
長谷智喜「子どもの命を守る分離信号―信号はなぜあるの?」生活思想社
参考リンク
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子どもの命を守る「分離信号」 信号はなぜあるの
www006.upp.so-net.ne.jp
クルマを使うとしても、現在のように制限速度は無視して違法なスピードで走行することが常態化しているような状況はなくして、ソフトカーと呼ばれるクルマにすることで歩行者とクルマが共存できる可能性も示されています。
ソフトカーは、雰囲気で言えば、道路によって適した制限速度を設定して、外側からクルマに最高速度を指示したり、クルマの速度が周りにわかるようにライトで示す、などの一連の仕組みを持ったクルマです。
参考書籍
小栗幸夫「脱・スピード社会―まちと生命を守るソフトカー戦略」清文社
クルマ社会とはどのようなものか見てみました。