孤独な社会人が一人で行楽・レジャーに行く方法

孤独な中年

孤独な社会人は休日に一人で出かけてくつろげるような場所は少ないです。
しかし休日に閉じこもっていると、ただでさえ気が滅入っている状態がさらに悪化していきます。
そこで、特に楽しいことがなくても、全てを投げ捨ててとりあえずどこかへ出かけましょう。

孤独な社会人が一人で行ける場所は少ない

孤独な社会人が一人で出かけ行ける場所は少ないです。
どこへ行っても怪しまれます。

あまり大きくない公園を私たちのような孤独な中年が一人で歩いていたら、怪しまれます。

行楽地に来ている人の多くは家族連れかカップルであり、私たちのような孤独な中年がそこへ行けば浮いて、怪しまれ、とても居心地の悪い思いをします。

そのような具合で、私たち孤独な中年が休日に出かけてくつろげるような場所は少ないです。
本当に生きていて辛いです。

孤独な社会人が一人で出かけてくつろげる場所の例

無目的に列車で遠出し、列車内でくつろぐ

どこかへ行けば怪しまれたり浮いたりする私たち孤独な中年も、列車に乗っているときは別に怪しまれません。

そこで、無目的に列車で遠出することで列車内でくつろげます。

一定の範囲の普通列車乗り放題の切符はたいていどこでも売っているので、買って普通列車にのり、景色を見てくつろぎます。

行先で決めず、クロスシートの列車に乗る

昨今は普通列車の多くが通勤列車によくある向かい合った長いシートのタイプのロングシートの車両になっています。
ロングシートの列車では他人同士で向かい合って座っているので、ほとんどくつろげません。下を向いて本を読み続けるしかなくなります。

ロングシートではなく、特急列車や新幹線の車両のように進行方向を向いて座るクロスシートの車両の普通列車も減ってきてはいますがあります。
クロスシートなら乗客は同じ方法を向いて並んで座る状態になるので、客同士で向かい合うことはなく、くつろげます。

そこで、行先は決めず、駅に行ったらとにかくクロスシートの普通列車を探して乗りましょう。

そして到着地までくつろぎます。

ロングシートしかなかったら、読書か座禅をする

どうしてもロングシートの車両に乗らざるを得ない時もあります。
そのような時は、読書するか坐禅をします。

家で本を読んでいれば気が滅入ってくるので、列車に乗ったときに読みたいものを読みます。

本を読む気力も失われている時は坐禅をします。
家で部屋に閉じこもって坐禅をしていることでさらに気が滅入ってイライラが増幅してくる人も多いでしょうが、列車内なら落ち着いて坐禅ができます。

坐禅の教則本などを読むと、椅子に座って坐禅をしても良いと書かれています。また、目は半分くらい開けるのが基本ではあるものの、つむっても良いと書かれています。また、手は法界定印にすることになっているようですが、初心者は単純に片方の手でもう片方の手を握るような楽な形にすれば良いと専門家が説明していました。

列車のシートに普通に座って、目を閉じてただ座ります。何か考え始めてしまっても、坐禅しているから考えるのをやめよう、と思ってすぐ考えるのをやめます。またすぐ何か考え始めてしまうので、また考え始めてしまったが坐禅中だから考えるのをやめよう、と思ってすぐ考えるのをやめます。そのような具合に、一切何も考えずに座り続けるのは困難ですが何か考え始めてもすぐやめることを繰り返します。

目を閉じていると眠りそうになりますが、眠ると坐禅にならないので眠らないようにします。

私たち孤独な中年は聖書を読んでも神に祈っても仏教の経典を読んでも経を唱えても救われない。しかし最後に禅定をする。

苦しんだ後、同じ結論に達した孤独な中年の人も多いかもしれません。
私たち孤独な中年は、聖書を読んでも神に祈ってもキリスト教の解説本を読んでも、仏教の経典を読んでも経を唱えても仏教の解説書を読んでも、救われません。

聖書は言語で理解し、祈りも基本的に言語で行うもので、キリスト教の解説本も言語で理解し、仏教の経典も言語で理解し、お経は日本語に翻訳していない外国語の経典なのでお経も言語で理解し、仏教の解説書も言語で理解するしかありません。

しかし、ゴータマ・ブッダが述べていた内容から考えると、私たち孤独な中年が救われるために知る必要のある智慧は言語や数式で表現できる分別の知恵ではなく言語や数式で表しようがない無分別智です。
そのためいくら仏教の経典や解説書を読んで知力で救われようとしても、多少知識が増えるだけで救われはしません。

また、ナザレ村で大工をしていたイエスは天のお父ちゃんに全幅の信頼を置いており、周囲の人にも色々な語り方で天のお父ちゃんに全幅の信頼を置いて生きることをすすめていたわけですが、その根拠はなにもありません。
天の父ちゃんを信頼しきれと言われても、信頼して明日飯が食える根拠も、来月最低限何とか生きていけるだけの収入が確保できる根拠もありません。こちらは今日明日食って生きていくのも危ういわけで、食えるようになるかならないかは神がどうのではなく自分ら日本の主権者の政治運動、社会運動の努力次第であり、論理的に考えて何の根拠もなく天の父ちゃんに信頼を寄せるのは無理です。
イエスも最終的にエルサレムの神殿に乗り込んでいって逮捕されて処刑されてしまったわけで、行動しなければ現実は変わらないことくらい知っていました。
ということで、イエスは分別の智慧の範疇で天のお父ちゃんに全幅の信頼を置いてたわけではなく、無分別智で天のお父ちゃんは信頼できると分かったのでしょう。

キリスト教の教団幹部や学者や、仏教の教団幹部や学者が何というかは分かりませんが、孤独な中年の私なりに孤独や疲労や低収入その他に打ちひしがれて救いを求めて彷徨って、現時点でそのような理解に至ったわけです。

ということでなす術がなくなった私たちは坐禅をしてみましょう。
坐禅をして救われても救われなくても問題ありません。道元禅師が坐禅は何かの目的のためにするものでもないと言っていました。
私たち孤独な中年としてはもうこれ以上どうすることもできないわけで、これ以上良くも悪くもならないのだから気軽に坐禅をしてみましょう。

道元 「小参・法語・普勧坐禅儀」 <全訳注> (講談社学術文庫)

「永平寺で坐禅を組む前に必ず唱える「普勧坐禅儀」。坐禅の真髄とは何か。その心構えと作法も懇切に説く。」

佐藤研 坐禅入門 禅の出帆 ぷねうま舎

「ヨーロッパで禅を指導する著者による、経験を踏まえた渾身の「悟り入門」。
手と足をどう組むのか、呼吸はいかに整えるのか、坐ると何が見え、どんな経験をすることになるのか──坐禅の具体的な手ほどき。
坐るという道で開けてくる風景を、キリスト教の異なった伝統とすり合わせ、またヨーロッパへと海を渡った禅のダイナミックな動向を参照しながら描いていきます。
本来は言葉が届かないはずの純粋な経験を、世界が変わるその素晴らしさと豊かさを、少しでも多くの人と共有するために、三つの鏡を使い、五つの層にわたって再現します。」

大きい公園へ行く

私たち孤独な中年が小さめの公園を一人で歩いていると怪しまれますが、大きい公園なら怪しまれません。
駅から近く、ある程度大きい公園を探して出かけましょう。

大きい川の河川敷を散歩する

大きい川の河川敷が緑地として整備され、散歩したりできる場所は多いです。
また、堤防の上が散歩できるようになっている場所もよくあります。

このような場所なら孤独な中年が一人で散歩していても怪しまれないので、駅から近い河川敷の散歩道を探して出かけましょう。

日帰り浴場

日帰り浴場に風呂に入りに行けば、いくらかくつろげるでしょう。

無料休憩所は家族連れの人たちが使っていて私たちのような孤独な中年は使える雰囲気ではありませんが、日帰り浴場ならいくらか椅子やベンチのようなものがあることも多いので、探して座ってくつろぎましょう。

試しにどこかの風呂へ行ってみて、分煙されていなかったり一人で座れるような場所ないところだったら、次回はまた別の風呂に行ってみて、くつろげる風呂を探しましょう。

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